ぐるっとおでかけ阪神北 ひょうご北摂ツーリズムガイド

  • 中
  • 大

2021.05.21
イベント
すみれ♪ミュージアム 企画展 「街と宝塚歌劇~阪急沿線 駅ごとの風景」  
宝塚の街と宝塚歌劇の変遷を追った企画展。オリジナル映像を是非ご覧ください。
また...
2021.05.21
イベント
モダン宝塚のレガシー -関西随一のモダン仙境-
第一次世界大戦以降、およそ100年にわたるモダン都市としての宝塚の歴史・文化・発展を紐解く...
2021.05.21
イベント
宝塚市立手塚治虫記念館第82回企画展 「手塚治虫と演劇『七色いんこ』展」
手塚治虫の演劇歴を紹介した上で、「七色いんこ」をはじめとして、演劇の影響が見受けられる...
2017.03.30
イベント
桃の即売会 ※新型コロナウイルス感染症拡大防止のため、令和3年度は中...
令和3年度の桃の即売会は中止となっております。
桃は直売所(四季の郷やスマイル阪...
2018.03.26
イベント
第24回三田まちなみガーデンショー 

5月のシーズンセレクション

  • 武家社会の基礎を作り上げ、日本の歴史を大きく変えた源氏。本拠地の鎌倉が有名ですが、これは源頼朝以降のこと。川西は清和源氏の祖・源満仲公が切り開いた土地として、数々の名所旧跡が残されています。

    清和源氏は、清和天皇が孫の経基に源氏の姓を授けたことから始まります。この一族は、経基の子、源満仲公が摂津守に任命され、摂津の山深い多田盆地に移住しました。この地で源氏は武力を蓄え、独自の武士団を形成していきます。

    市内にある『多田神社』は源満仲公が建立した多田院を前身とし、源満仲公をはじめ、頼光、頼信、頼義、義家の五公が御祭神として祀られています。頼光は満仲公の長男で、大江山の鬼・酒呑童子退治で名高い人物です。 頼光に四天王の一人として仕え、「金太郎」の名で知られる「坂田金時」の墓が、『満願寺』『小童寺』の境内にあります。

    また、『頼光寺』は、頼光の弟・源賢僧都(げんけんそうず)が、母の法如尼のために建てた寺院です。アジサイの名所として知られ、参拝客らの目を楽しませてくれます。

    『小童寺』も、同じく源賢僧都が創立した、源氏ゆかりのスポットです。

    多田神社に祀られている頼信は満仲公の息子で、頼光の弟にあたります。この頼信から続く家系が後に頼朝や義経、義仲などの希代の武将を輩出し、武士の世を築き上げたのです。
  • 1881年(明治14年)、外国人化学者のウイリアム・ガウランドが、川西市の平野鉱泉から涌き出る炭酸水を分析し、「理想的飲料鉱泉なり」と賞賛しました。3年後、この炭酸水が瓶詰めされ、「平野水」の名前で販売されました。後に香料や砂糖が加えられた「三ツ矢シャンペンサイダー」が登場。「三ツ矢サイダー」という通称で広告などが展開され、永く愛され続けるヒット商品になりました。

    さて、「三ツ矢」の名はどうやってつけられたのでしょうか?これは平安時代の中頃、源満仲が、城を作ろうと住吉大社に祈念したところ、ご神託によって放たれた鏑矢が多田・平野の地に飛来。この矢を探しだした男に「三ツ矢」の姓と三本の矢羽の紋を与えた、という故事に因んだものです。平野鉱泉を発見したのも源満仲公との言い伝えもあり、源氏ゆかりの川西市ならではのエピソードとなっています。
  • 伊丹は「清酒発祥の地」です。

    市内の鴻池児童公園にある「鴻池稲荷祠碑(いなりしひ)」は江戸時代の酒造家・鴻池家が立てたもので、慶長5年(1600年)に「戦国時代の武将・山中鹿之助の孫、幸元(新六)を始祖とする鴻池家が、従来の濁酒から清酒を作ることに成功、財を成した」という意味のことが記されています。

    伊丹では、旨い酒を安定的に量産する手法として、麹米・蒸米・水を3回に分けて酒を造る「三段仕込み」といわれる技術を開発して清酒の醸造に成功し、安定した量産ができるようになりました。

    また、醸造された伊丹酒の大半は最大の消費地である江戸へ販売され、高品質の伊丹酒は「丹醸」と賞賛されて大いに評判を呼んでのちに江戸幕府の「官用酒」となり、この「官用酒」のことを「御免酒」と称していました。

    残念ながら最盛期に200以上もあった銘柄も、「白雪」「老松」などを残すのみとなりましたが、今でも街の一角に白壁の酒蔵が残り、「白雪ブルワリービレッジ長寿蔵」では酒造りの歴史を学んだり、おいしい清酒に舌鼓を打つことができます。
  • 三田ゆかりの川本幸民(かわもとこうみん)なる人物をご存知でしょうか?
    川本幸民は幕末に三田藩医・川本周安の三男として生まれ、後に緒方洪庵や青木周弼らとともに坪井信道に師事。蘭学者として名を馳せ、薩摩藩主・島津斉彬の顧問や三田藩医、幕府の蕃書調所教授などを務めた人物です。

    幸民は1861年(文久元年)にオランダ語の化学書を訳し、「化学新書」を書き上げ、それまで「舎密学」と呼ばれていたこの分野に、初めて「化学」という言葉をあてたといわれています。この本には、原子説をはじめ、麦酒(ビール)の造り方まで紹介されています。幸民は、1853年(嘉永6年)に外国船でビールを口にしたとされ、その後自宅に炉を作り、日本人で初めてのビール醸造を成功させ、試飲会を開いたと伝えられています。本格的なビールの製造や販売は明治維新後、横浜の居留地からでしたが、これに先駆けて幕末の世にビールを登場させたことになります。他にも幸民は、写真やマッチなどの試作を成功させた逸話も残されています。

    1953年(昭和28年)、三田市立三田小学校正門前に幸民の顕彰碑が建てられ、その偉業を後年に伝えています。

    三田市では幸民の残したこれらの業績にちなみ2017年(平成29年)から11月3日に「三田ビール検定」を開催しています。
    また幸民の生誕200周年を記念し、2010年(平成22年)には、川本幸民が醸造したとされる当時のビールを再現した「幸民麦酒」が作られました。