ぐるっとおでかけ阪神北 ひょうご北摂ツーリズムガイド

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/ シーズンセレクション 6月 /
  • 668年(天智天皇7年)、大阪府堺市、現在の家原寺に生まれた行基は、15歳の時に出家。唐からの帰国僧・道昭に学んだと伝えられています。道昭は土木工事を行い、民衆に貢献した人物です。後年行基が数多くの土木工事に携わったのは、師の影響が大きいと考えられています。

    行基は諸国を行脚し、昆陽上池等の造築や畿内49院の建立に努め、民衆の絶大な信頼を集めました。畿内には行基やその弟子の開創を伝える寺が多く、「行基さん」の名で親しまれる『昆陽寺』や『東光寺』もそのひとつです。
  • 宝塚・山本の出身である「坂上頼泰」は、植木の品質向上を図る画期的な技術となる「接ぎ木(つぎき)」という技法を発明し、園芸史上に大きな影響を与えました。源満仲の同族として、代々山本の荘司を務めてきた坂上家は、4代目坂上頼継が館前に花園を設け、以後花木の栽培を継承してきました。頼泰公はこの頼継の遠縁にあたります。山本の荘司として豊臣秀吉に仕えていた頼泰公は、この功績から「木接太夫」の称号を賜ったということです。山本駅の近くの『木接太夫彰徳碑』は、この業績を称え、植木の名産地・山本のシンボルとなっています。

    木接太夫彰徳碑がある山本には、花と緑の情報発信ステーション『あいあいパーク』があり、4月と10月に開催される「宝塚植木まつり」も愛好家の人気を集めています。
  • 元禄時代の上方を代表する俳人・上島鬼貫(うえしま おにつら)は、1661年(万治4年)、伊丹の酒造家の三男として生を受けました。「鬼貫」とは俳号で、本名は宗邇(むねちか)。

    24歳までの青年期を伊丹で過ごし、当時流行していた、酒造家の旦那衆を中心とした遊戯的な伊丹風俳諧の若手俊英として活躍しましたが、しだいに疑問を抱き、「誠のほかに俳諧なし」という境地に達しました。のちに、京、大阪で活躍し『東の芭蕉、西の鬼貫』と称されました。

    一方で遠い祖先が武士の名家で、鬼貫自身も武士として生きることを熱望し、三池藩や大和郡山藩などに出仕しました。その生涯は、希代の俳人「鬼貫」と、武士「宗邇」という二者を生きたものだったといえます。

    市内の『柿衞文庫』には、この鬼貫をはじめ芭蕉の「ふる池や」短冊など、多くの俳人たちの真筆資料が収蔵されています。また「猪名野神社」の本殿西側には鬼貫の句碑が建てられています。
  • かつて、三田は九鬼氏3万6千石の陣屋がおかれた城下町(陣屋町)でした。九鬼氏は、戦国期、織田信長.・豊臣秀吉の水軍の大将として名を馳せた一族です。九鬼水軍の力を恐れた徳川幕府は、お家騒動に乗じて、海のない内陸の三田に封じ込めたといわれています。

    幕末には、最後の藩主、九鬼隆義が洋風の文化を取り入れたり、洋式の兵制を採用するなど、積極的な藩政改革を行いました。明治維新を迎えると、九鬼氏や藩士は神戸に進出、商社の経営やキリスト教の慈善活動、社会活動などに邁進します。

    『旧九鬼家住宅資料館』は、代々家老職を務めた九鬼家の当主、九鬼隆範が明治初期(明治9年頃)に自ら設計し建築した全国でも数少ない洋風と和風混在の擬洋風建築の建物です。ここでは、黎明期の鉄道建設に従事した九鬼隆範の業績にふれることができます。
  • 阪急電鉄と宝塚歌劇の創設者と知られる小林一三氏ですが、他にも様々な業績を残しています。1873年(明治6年)山梨県に生まれた小林氏は、1907年(明治40年)に三井銀行を退社後、箕面有馬電気軌道(現在の阪急電鉄)を起こします。当初の路線は、宝塚線(梅田~宝塚間)と箕面線(石橋~箕面間)のみでした。

    この鉄道の乗客増加、経営安定のために、氏は多数の事業を展開します。

    また、終点である宝塚に、家族で楽しめる『宝塚新温泉』を造ったのはそのひとつ。新温泉への誘致企画として『宝塚歌劇』も創設しました。沿線の土地を購入して宅地開発を行い、郊外型の住宅都市を建設していきます。梅田駅には日本初のターミナルデパートを開業、電車の中吊り広告を初めて行ったのも小林氏です。現在では当たり前になっている、百貨店の食堂やカレーライスの商品化、ビジネスホテルなども、小林氏のアイデアによるものでした。

    氏は阪急百貨店、東宝などの阪急東宝グループを起こし、太平洋戦争直前の難局に商工大臣を、戦後の混乱期に国務大臣、戦災復興院総裁を歴任しています。1957年(昭和32年)に永眠。享年84歳でした。
  • 1994年(平成6年)に開館した『宝塚市立手塚治虫記念館』は、開館初年度約50万人もの入館者を記録しました。

    1928年(昭和3年)大阪府豊中市に生まれた手塚治虫氏は、5歳から24歳までの20年近くを宝塚の地で過ごしました。周辺の雑木林で昆虫採集に熱中し、歌劇を楽しむ…。手塚少年の隣家には宝塚歌劇大スターの天津乙女と雲野かよ子姉妹が住んでいました。宝塚歌劇の影響は、代表作「リボンの騎士」などに表れています。戦争体験から生命の尊さを深く知り、大阪大学医学専門部を卒業しますが、最終的には漫画家・アニメーション作家としての道を選択、日本初の30分連続TVアニメーション「鉄腕アトム」や、連続TVカラーアニメ「ジャングル大帝」などを制作しました。

    1989年(平成元年)に手塚氏が60歳で永眠した後も作品の魅力や影響力は衰えず、国内のみならず、世界的にも高い評価を受けています。

イベント紹介

第88回企画展「リボンの騎士 3人のサファイアの物語」

魔法の3Dアート

たからの市

アナベルリース作り【要申込】

すみれ♪ミュージアム 企画展 「街と宝塚歌劇~阪急沿線 駅ごとの風景」  

モダン宝塚のレガシー -関西随一のモダン仙境-

宝塚市立手塚治虫記念館第82回企画展 「手塚治虫と演劇『七色いんこ』展」